2024年4月17日水曜日

久しぶりのお花見

 少し遅いと思っていた櫻の便りも、ここにきて一気に列島を北上していき、 この辺りではすでに満開を過ぎようとしています。

 例によって突然に、櫻を観にいこう、、、と思い立って、古い友人に声をかけたところ、「明日でもOK、花見と昼食の場所は任せろ、、、」とのあり難いお言葉に甘え、さっそく出かけました。

 当日は雲が少し多めでしたが薄く、空気は爽やかで春を満喫できそうな天候でした、これぞ「花曇り?」







 行先は中津川、標高があがるにつれて少しずつ先行した春に追いつくように景色が微妙に変わっていくのを楽しみました。
 「ソメイヨシノ」はもちろんのこと、色とりどりのヤマザクラや新緑で笑っている山々などなど、、、、

 友人宅へ到着し、奥さん手づくりの櫻茶とカラスミで一服させていただきました。カラスミ、、、と言っても例のボラの卵巣ではなく、米粉で作ったもので、もともとは雛菓子なのですが、この地の春の季節菓子となっています。
 断面が富士山の形をしているのも特徴です。

 この日の予定は、花見を木曽川の北側にある苗木城址の北に面した「さくら公園」で、昼食は馬籠の「萩乃屋」とあらかじめ用意してくれていました、感謝感謝、、、です。

 苗木城址へは何度も訪れていますが、この公園のことはよく知りませんでした。
 中津川市の広報では、サクラの数700本とありましたが、それらの木々は樹齢が比較的若いように見受けました。
 それゆえにいわゆる櫻の名所の雰囲気とは異なり、若さと勢いが感ぜられました。

 花はほぼ満開に近い状態でしたが、まだ花弁もほとんど散っておらず最高の状態でした。









 幸い訪れたのが平日とあって駐車場も一番奥まで乗り入れが可能で、なおかつ空いていました。

 公園内のサクラの木に何やら短冊のようなものが下がっているのを多く見かけました。
 近寄ってみると、○○子さん入学祝とか○○会還暦記念などといった文字が見られます。








 公園を開放していろいろな記念行事に植林をすることにしたのでしょう、いいアイデアだと思いました。







 ほとんどのサクラは「ソメイヨシノ」でしたが、枝垂桜の数本が一カ所に植えられている場所もありました。(上写真) これもまた趣があって奇麗です。

 また数少ないですが、ツツジも花開いてアクセントとなっています。(右写真)



 私どものイメージではツツジはサクラが終わってから咲くものと思っていましたが、近年ではほとんど同時期にみられるようになりました。

 さくら公園の小高い丘の上に見晴らし台がありました、何はともあれ登らねば、、、○○と○○は高いところへ、、、

 遠くに見える左側の尖った山は中津川市と恵那市の境にある笠置山(1128m)でしょう。

 あいにくの花曇りですが、手前のサクラとのコラボはなかなかのものです。

 近い将来この景色の下をリニア新幹線が走るようです。

 人混みを気にせず、マイペースでしばらく散策を楽しんだのち、昼食のために馬籠へ移動しました。目的地は「萩乃屋」という日本料理屋さんです。













 実はこのおみせは以前にも来たことがありますが、その後ミシュランガイド愛知・岐阜・三重2019版で、「ビブグルマン」に選ばれたとか、、、
 「ビブグルマン」というのは価格以上の満足感が得られる料理という意味だそうです。

 ここではメニューは多くなく、昼のみ提供される定番?の「萩乃屋ランチ」をオーダーしました。写真は、料理が先付け、煮物、焼き物、揚げ物と出た後での、香の物付き なめこ雑炊 で、この後シャーベットで終わりました。













 右写真は、「萩乃屋」のちかくにあった「コブシ」です。





 たまたまの思い付きとはいいながら、久しぶりに花見をすることが出来ました。

 若々しい花たちから元気をもらい、ゆっくりとした時間の中での古き友人との食事や会話のなかで、やはり健康であることが肝要であるということを改めてかみしめた一日でした。

 来年もまた出かけよう!

2024年4月12日金曜日

ようやく春が来ました


  ようやく春が来ました。

 今年は例年になく花の咲くのが早い???などとの声が盛んに飛び交いましたが、直前になって一日伸ばし、、、
 気が付いてみれば例年並みで、入学式にもめでたく花を添えられた、、、という結末でした。

 とはいうものの我が家の庭花たちにとっては何かすっきりとせず、開花の時期と種類があまり判然としませんでしたが、それでも毎年の馴染みの姿を披露してくれました。

 すでに終わってしまいましたのでここでは取り上げませんでしたが、「ワスイセン」は例年のごとく、春になる前の庭を覆いつくすように咲き乱れ、清々しい白色と芳香で満たしてくれました。

 そしてこの時期に庭のあちこちに咲き誇っているのは「クリスマスローズ」です。

その中でも濃い目の赤紫色のそれが一番多くみられます。(写真左上) 

右上の白はどちらかというと減少の一途ですが、まだまだ頑張っています。

右下の黒は好評で、引く手数多です。

そして時々、左下のような変わり者が顔を見せる時があり、これもまた楽しみの一つです。










 次の定番は「ムスカリ」で、左写真にあるきれいな群青色は思わず目を見張らせるものがあります。

 そして右写真は「ムスカリ」と「ベロニカオックスフォードブルー」が大きな鉢に植えてある様子です。白い壁をバックでの取り合わせは、この時期強くなってきた陽の光を浴びて輝いており、ウェルカムフラワーの役割を十分に果たしています。

 次の「イワヤツデ」は中くらいの鉢に植えてあるのですが、秋の終わりには枯れてしまって(休眠)何も植わっていないかのようですが、また春が巡ってくると、、、写真のように花開きます。

 先日友人にこの写真を見せたら、即座に「タンチョウソウ」、、、と言われました。
 なるほど、赤い点をタンチョウヅルの赤い頭に見立てたのでしょう、でもこのほうが一般名のようです。









 左写真は「バイモユリ」です。
 漢字では「貝母百合」を充てるようですが、これは球根の形が貝のようであることによるようです。(写真右下)

 このエキゾチックな花は古くから茶花として使われてきたようで、家人のお気に入りの一つです。



 今の時期、白い小さな花が群生して庭の一部でアピールしています。
 そうです、「スノーフレーク」です。
 よく似た花に「スノウドロップ」がありますが、こちらは我が家では早い時期にいなくなってしまいました。











 「ワスイセン」は前述しましたが、黄色い花弁の水仙(「糸スイセン」「ラッパスイセン」「黄スイセン」などの洋系、和系にはない)もほぼ終わったところです。

 写真は切り花にするための水仙をバードバスに置いてあるの図、、、です。








 この季節に草花ではありませんが、樹木にも花が咲きます。とはいってもサクラやコブシ、モクレンなどではなく、わが庭にあるのはジューンベリー(右写真)とブルーベリー(下写真)です。









 共通しているのはそれぞれに美味しい実がなることです。花はブルーベリーが早かったのですが、実の収穫はジューンベリーのほうが早いです。 また紅葉がきれいなのも共通しています。 もちろん花も奇麗です、、、
 
 春が、、、花が、、、早くても遅くても必ずやってくることの嬉しさは年々増してきているように思われます。
 健康に留意して、春を、花をもっともっと楽しまねばと思っています。

2024年3月26日火曜日

国立科学博物館へ行ってきました

 かねてから一度訪れたいと思っていた国立科学博物館へ行ってきました。 国立科学博物館はあちこちに散在していますが、目指したのは東京の上野恩賜公園にある上野本館です。
 JR上野駅の公園口を出てまっすぐに進みます、上野駅も久しぶりです。

 公園入口に案内図があったので早速撮っておきます。

 中ほど左下の公園口からまっすぐに進み、最初の交差点を右折したところにあり、近くてわかりやすいところです。






 幸い天候に恵まれ、春の日本晴れで雲一つありません。
 この右側に国立西洋美術館があります、折角ですので前庭の彫刻に久方ぶりのご挨拶です。

ここにはオーギュスト・ロダンの彫刻が多く、左側の群像が「カレーの市民」右奥にみられるのはダンテの新曲をモデルにしたとされる「地獄の門」とその両側に「アダム」(左)、「イブ」(右)があり、右手前には「考える人」がいます。
 遠く中央の入口近くにはブルーデルの「弓を弾くヘラクレス」も見られます。

 また、この国立西洋美術館の建物は、かのコルビュジェが設計したものでは日本由一のものとか、、、、

 交差点を右折し、しばらく行くと右側に蒸気機関車「D51 231」がありました、これも博物館の展示物なのでしょう。

 「D51 231」は動輪を4個有する、旅客、貨物両用蒸気機関車でその231番目に造られました。
 電化で引退した最終の蒸気機関車群に属し、その昭和50年末までに約216万km(地球を54周)を走破した強者です。
 すぐ先に国立科学博物館の入口が見えています。

右写真が目指す国立科学博物館なのですが、前々から興味があったのは展示物もさることながら、この建物にも興味があったからなのです。
 右下に上空からの写真を添付しておきましたが、左右に翼を広げた古い飛行機のような形をしています。

 この建物が国立科学博物館(日本館)で、前身は「東京科学博物館本館」(重要文化財)で関東大震災の復興に合わせ、1931年(昭和6年)に完成しており、そろそろ100歳の声を聴きます。

 偶々、「海生無脊椎動物の世界」というテーマでの展示中でした。

 最初に観たものは「フーコーの振り子」です、ただ細いワイヤーでつるされた錘が揺れているだけのものですが、この現象が、地球の自転と、緯度の関係を表しており、このことを野にあった科学者フーコーが発見したのは大変な出来事だったと思います。

 この建物の見どころの一つ階段です、幾種類かの石材の用い方、ランタンやアイアンのデザインも素晴らしい。
 そして壁にはめ込まれたステンドグラスも、、、、







 圧巻は中央吹き抜けの天井です。
 ドームの頂点には美しいステンドグラスがあり、四方にもステンドグラスがあしらわれています。




 これらは昭和初期に活躍した日本の建築家やステンドグラス作家の手によるものらしく、荒れ果ててしまっていたものを後になって後継者の人たちが修復したもののようです。


 いかに国立科学博物館とはいっても(現在は国立という名前でも法人、対外上のやり取りにNational の文字が必要だったので残したとか)規模の大きさは欧米のそれに比べるべくもありませんが、それでも細部まで見て回る体力は私にはありません。

 以下たまたま興味をそそられた部分についてのみ挙げていきます。(1か月毎日通えば何とかなるかも、、)

 上写真は突然目に飛び込んできた「ヒグマ」です、実に大きい!
 日本にもまだこんなに大きな生き物がいたんだ! 過日話題になった「OSO 18」のことが思い出されます。

 次の写真は日本に落下した隕石・隕鉄です。中央に見える大きな隕石は、「気仙隕石」と言い135kg(研究用試料を採取する前)あったそうですが、重さだけで比較するとその右にある「田山隕鉄」で175kgあります(日本一)。ちなみに世界一の隕石は、アフリカのナミビアで発見された「ホバ」隕石で63tもあるそうです。

 左の「フタバスズキリュウ」は1968年(昭和43年)に福島県いわき市で当時高校生の 鈴木 直さんが発見したことは古い記憶に残っていました。いわゆる恐竜ではありませんが、流石に迫力があります。
 骨格模型の下にある発掘当時の骨のレプリカも素晴らしい。

 次々と現れる珍しく面白い展示物に誘われてこれまでの建物(日本館)から知らぬ間に別の建物(地球館)に入り込んでいました。

 展示場面積はこちらのほうが大きいかも、、、、

 しかしながら体力的に、、、で、見学もつまみ食い状態です。

 そんな中ふと目に留まったのは、「忠犬ハチ公」と「ジロ」です。忠犬ハチ公がこんなところではく製になっているとは夢にも思いませんでしたし、会えるなんて、、、館内案内のボランティアさん曰く、今時の若い人はハチ公のお話を知らない人が多いですよ、むしろ外人さんのほうが、、、、
 南極で極寒を生き抜いた樺太犬「ジロ」には「タロ」という相棒がいたはずで、その消息を聴いたら、北海道大学にあります、、、とのこと。

 恐竜と言えば「ティラノ・サウルス」と言われるくらいですが、左写真は「アロ・サウルス」です。
 一見よく似ていますが、この「アロ・サウルス」は「ティラノ・サウルス」より数千万年も前の時代に生息していたので、お互い相手を見ることはなかったと思われます。
 もしお互いが戦えば?の架空議論があるようですが、「ティラノ・サウルス」が重く強いようです。

 こんなものもありました、真空管を使った電子計算機です。
 これは富士写真フィルム(株)の岡崎文次さんがレンズ設計計算の省力化のために1956年(昭和31年)に7年かけて完成したという「FUJIC」です。

 興味があって後刻 Wikipedia で調べました。岡崎さんはこの道の専門家ではなく、アマチュア的なところがあり、ほとんど一人で、それも本業の業務とは別の時間を使って製作し、部品調達のためも秋葉原へ出かけた、、、、
 それでいてコンセプトは最先端を行っており、得た特許はIBMにもライセンスした、、、、などなどすばらしい!!!

 ついに力尽き、エネルギー補給のために地球館中二階の「レストラン・ムーセイオン」に入りました。ちなみにムーセイオンとは古代ギリシャ語で学堂を意味し、これがミュージアムの語源となったとのこと。

 午後3時近くだったのですが、平日のせいで比較的空いていました。
 注文したのはケーキセット、ケーキはフォンダンショコラです、美味しくいただきました!!


 ほんの2時間にも満たない時間でしたが、久しぶりに多くのものに出逢い、語り合い、楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 機会あれば何度でも来館したい気持ちです。

 出口では名物の体長30m、重さ150tのシロナガスクジラのレィディ(原寸大)が見送ってくれました。

2024年3月12日火曜日

ウクライナからの部品で FLUKE 8842A リペア

 おかげ様で日々大好きな電子工作に明け暮れていますが、その際に使うディジタル・マルチメータ は必須です。
 これらはできれば信頼性の高いものが良いのです、幸い私のところにはこの分野での御三家ともいわれる、(左写真上から)FLUKE 8842A、KEITHLEY 2010、Agilent 34401A が控えていますが、これには訳があります。

 これらの測定器はある程度の精度正確さを求めるならば、自動車の車検のように、一定期間ごとに校正をする必要があります。しかしながら、われわれアマチュアにとって、リース落ちなどで手に入れたこれらの機材に正規の校正はあまりにも高額です。

 むしろこのように3台を所持し、お互いの測定値を比較していれば、そこそこの安心感を保つことが出来るのではないかと考えています。

 ところが、また別の悩みがあります。それはこれらの高級?機材が世に出された時代には、例外なく蛍光表示管が使われており、それらが今となって劣化してきたのです。(右写真)

 機材の精度などは保たれているのですが、表示がどんどん暗くなり、最後には見えなくなってしまうのです。このブログで以前紹介した「HP53181Aカウンター用7seg LEDモニタの製作」もその例・解決策です。

 原因は蛍光表示管に必要な電源回路(ほどほど高圧)の劣化は論外ですが、蛍光を発生させるためのカソード(電子を発生)の劣化が主因とされています。
 残念ながら対策はなく、蛍光表示管を交換するしか手はありませんが、これまた高価で(私が購入した本体より)かつ入手は容易ではありません。

 今回の表示管リペアの考え方を図示しました。(左上図)

の蛍光表示管の交換は断念、の別の表示(前述の HP53181A の例)は今回は不採用、そこでのLED表示パネルへの交換を実施しました。

 以前入手しておいたFLUKE 8842A 用のLED表示モジュールは偶然にも ebey で見つけました、思いのほか安価ですぐにオーダーした結果が右写真です。
 発送元は Kyiv UKRAINE(キーウ ウクライナ)となっていました、また発送日付は 2022.04.23 となっており、なんとロシアが侵攻した 2022.02.24 の2か月後でキーウ周辺での戦闘があったと思われる時期です。
 この小さなパッケージには「 LED DISPLAY MODULE FLUKE 8840A/42A (DIY KIT)」とありました。

 内容物は、静電気防止の黒い袋に入ったお目当てのモジュール(よく見えないので右上に写真添付)、本体に接続するためのコネクター・ピン、配線材料そしてマニュアルです。






 で、さっそく作業開始です。
 右写真は FLUKE 8842A の内部です、この美しいディスクリート部品が搭載された基板が私は好きですが、今では表面実装部品が多くなりそれこそ景色が良くありません、、、、





 左写真上は蛍光表示管が搭載された全面パネルの裏側で、黄色の線で囲まれた左10ピン、右11ピンの接続ピンの半田を除去した様子です。
 下左は蛍光表示管を用心深く取り外している様子、下右は取り外しに成功した蛍光表示管です。






 そして右写真は新しく取り付けるLED表示モジュールに接続ピンを取り付ける様子です。接続ピンを取り付け終わったモジュールはこれも注意深く本体パネルに半田付けします。
 寸法精度は純正品ほどではありませんでしたが、特に問題なく取り付け出来ました。

 これが完成写真です、流石に蛍光表示管の美しさにはかないませんが、実用的には十分満足できるものでしたし、昼間の明るい部屋でも視認できました。
 LED表示モジュールは蛍光表示管に比して、寿命の点でははるかに優位ですが、駆動電圧が低く(2V以下、蛍光表示管は20V程度)今回のようにそのままモジュールを置き換えるということはかなりの技術力が必要ですし、量産品でもない部品に仕上げる工夫も大変な苦労があったものと思います。

 翻ってウクライナがロシアの一部であった頃は最先端技術の地域であったようで、私の趣味の一つであるカメラについても、かつてドイツには世界に冠たるライカとコンタックスという2大カメラメーカがありましたが、第2次大戦が終結するや否や、ライカは米国が押さえ、コンタックスはロシアが人も含めて設備すべてをウクライナへ持ち去った話は有名です。
 そしてそこで生産されたカメラが右写真にある「キエフ」で、ロゴが CONTAX ではなく KIEV になっていました。

 そんなウクライナにはより親しみを感じています、一日も早く平和が来ますように、、、